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さてこの「ライオン丸だけが孝行してくれる」とは、明瀬の最も敬愛する監督である大塚莞爾先生の言葉です。
明瀬の東京時代の始まりは、映画学校に通う事に始まるのですが、特撮がやりたくて来る生徒などは何代か前の先輩以来まででした(「高原ライオン丸」などという実習作品がありましたっけ)
大体、子供番組の監督を目指していたり、高校時代から特撮ヒーローなど作っている奴と奇異の目で見られていた明瀬としては、何を馬鹿なと一人でつっぱっていたものです。
その学校の先生方というのが、それこそ気の遠くなるような実績を持つ方々だった訳で、大塚先生もまたその一人だった訳です。
もともと大塚先生は、大映育ちのテレビ映画の監督。子ども向け特撮ヒーロー物へと活躍の舞台を写し、スペクトルマンの「恐怖の怪獣ショー」を皮切りに数々のピープロ作品を監督しました。
ピープロ作品の監督ということだけで、ピープロ好きの明瀬にとっては、まさに理想的な環境だったわけで…。
まあご多分にもれず、授業にかこつけて色々当時の話を聞く訳です。
大体授業からして「快傑ライオン丸」の最終回を見ながら、この部分はこうなのだという話に終始する訳で、演出論とか言いつつ、実は特撮ヒーロー論ではなかったか?
という状況。
生徒の大半は馬鹿にしていましたが、 明瀬は妙に食い下がって授業が終わっても質問していました(アクションの時のコマ数は何コマが良いとかこっそり教えて貰いました。何コマかはナイショ)
先生の最初の特撮作品であるスペクトルマンでは、セットの中に入るとゴリ役の遠矢さんがしきりとフィンガーアクションを考えている所に出くわし「これは大変なところに来た」と思ったそうです。
その後続く、快傑ライオン丸ではタイガージョーのテーマを聞いて仕事を引き受けたとのことで、ことさらライオン丸への思い入れは強かったようです。
西部劇好きの先生のこと、「風雲ライオン丸」などは特にお気に入りだったのですが、よくよく訪ねてみると、もう何十年も見ていないとのこと。
早速、京都の友人が録画してくれたビデオをお渡しすると大変に喜ばれ、それ以来大変可愛がって頂きました。
全話がビデオソフトで出ることなど考えも及ばなかった時代のこと、監督であっても当時の作品を見ることはなかなか出来る事ではありませんでした。
ここで、はたと気づいたのが「大人の番組」って、なんで残らないのかということです。
子供番組は再放送が多く、雑誌にしても、ムックにしても、多くでるのですが、大人の番組やテレビドラマに限れば、どんなドラマがあったのかさえ分からなくなってしまっています。
そんな中、大塚先生には再び見ることができた自分の作品。そしてビデオソフトが出てなおかつ小額であ っても2次使用料が入ってくるピープロ作品が、何年たっても忘れずにこづかいをくれる孝行息子のように写ったのでしょう。
明瀬をより特撮にシフトさせるきっかけの言葉でありました。
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